こんな方にオススメの内容!
- なぜ「原爆ドーム」が世界遺産に登録されたのか理由が気になる!
- 原爆が投下される前と後の広島の歴史を知りたい!
- 教養として世界遺産に関する知識を身につけたい!
- 世界遺産検定の受験を考えている!
- 広島への旅行を考えている!
遺産ポイント
- 現在原爆ドームと呼ばれる建物の設計者は「ヤン・レツル」
- 建設様式はモダンな「ネオ・バロック様式」「ゼツェッション様式」などを採用
- 原爆ドームは「核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さ」をうったえている
「原爆ドーム」のプロフィール
そもそも原爆ドームとは
原爆ドームとは、原爆の被害を受けた屋根がドーム状の建物のことを指します。
第二次世界大戦中の1945年8月6日午前8時15分、現在原爆ドームと呼ばれる建物が建っていた広島県広島市上空に原子爆弾が投下されました。
この爆弾による熱線や衝撃波の大きなダメージを受け、かろうじて建物の骨組みを残した建物こそ原爆ドームなのです!
この時落とされた原子爆弾の名称は「リトル・ボーイ」と呼ばれ、人類史上初の原子爆弾投下となりました。
広島に原爆が落とされた3日後には、同じく日本の長崎県長崎市に「ファント・マン」という別の原爆が投下されてしまいました。
この2つの原爆投下以降、人が定住する地に原爆が投下された歴史はありません。
つまり、日本は世界で唯一の被爆経験国なのです!
核兵器の脅威と廃絶を発信するためにも、原爆の脅威の記憶を残す原爆ドームを保存しているのです。
広島市同様に、長崎市も原爆の被害を大きく受けました。
しかし、現在は当時の原爆の被害を記憶する建物や遺構が残されていません。
そのため物理的に世界遺産に登録する物件が無い状況なのです。
本来の建物の名前は原爆ドームではない
「原爆ドーム」という名前で呼ばれるようになったのは、原爆の被害を受けた1945年以降の話です。
「ドーム」と呼ばれるゆえんは、屋根部分が丸いドーム型の鉄骨をなしているためです。
現在原爆ドームと呼ばれる建物は、かつて下記のような歴史を歩んでました。
1910年 | 地域産業の活性化を目的に「広島県物産陳列館」の建設が始まる。 |
---|---|
1915年 | 「広島県物産陳列館」が完成。 |
1915年以降 | 「広島県産業奨励館」という名前に改称される。 |
1945年以降 | 原爆によって廃墟と化した建物は「原爆ドーム」と呼ばれるようになる。 |
建物の設計には、チェコ出身の建築家「ヤン・レツル」が抜擢されました。
建築視点の原爆ドーム
原爆ドームと呼ばれる前の「広島県産業奨励館」の建築の際には、従来日本に多かった建造物とは大きく異なる建築様式や技法が用いられていました。
具体的な広島県産業奨励館の建築の特徴としては、下記などが挙げられます。
- 建物全体がレンガ造り
- 楕円形(だえんけい)のドームや曲がった壁面を用いた「ネオ・バロック様式」
- 正方形の窓や直線や曲線が混ざったような装飾(幾何学模様)を使った「ゼツェッション様式」
上記のように、様々な様式を用いたモダンなデザインに仕上げられました。
とりわけ広島市内にある他の建物とは異質を放っていたため、市民から大きな注目を集めていた建物だったのです。
世界遺産登録理由
原爆ドームや広島平和記念資料館がある「平和記念公園」内のオブジェ
そもそも戦争関連の物件を世界遺産に登録する最大の目的は、世界平和へと繋げるためです。
加えて、人間が犯した過ちの歴史を後世に伝えていく使命もあります。
以上のことを踏まえて、原爆ドームが世界遺産に登録された最大の理由は下記になります。
核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さをうったえるため
世界平和を目指す活動の記念碑
広島平和記念資料館内にある爆心地を表した展示物
原爆ドームを保存して世界遺産に登録する理由は、人類共通の平和記念碑であるからです。
広島市を訪れる世界中の人々に、核兵器の脅威や惨状を伝える重要な役割があります。
また原爆ドーム近くにある「広島平和記念資料館」では、核兵器が用いられたことによる具体的な惨状や出来事を詳細に伝えています。
このように原爆ドームとその関連する施設は、世界平和を実現するための情報発信地にもなっているのです。
原爆が爆発した場所は、上空約600m、原爆ドームから南東に約160m離れたところです。
被爆範囲が約2kmであることを考えると、原爆ドームはほぼ真上から衝撃波を受けたことになります。
衝撃波を真上から受けたことで、レンガで造られた外壁部分や中心部分は残り、鉄骨でできたドーム部分もかろうじて残ったというわけです。
原爆ドームは核兵器の惨状の記憶を今に伝え、世界平和に大きく関わる記念碑であることが評価されて、登録基準(vi)を満たし世界遺産に登録されました。
(登録基準に関しては、こちらの記事で詳しく解説してます)
ちなみに現在、登録基準(vi)だけで世界遺産登録されることは好ましくないとされています。
ただし、原爆ドームなどの負の遺産の登録に関しては例外です。
例外である理由に関しては、後述の「建物としての価値はない!?」で詳しく解説します。
建物としての価値はない!?
ライトアップされた夜の原爆ドーム
残念ながら、原爆ドームは建造物としての価値は評価されていません。
建物が原爆による被害を受けたからこそ、世界遺産登録にふさわしいと考えられたのです。
つまり仮に原爆の被害を受けずに、当時の姿をそのまま残していたとすると、世界遺産登録には至らなかったことでしょう。
そもそも原爆ドーム(前:広島県産業奨励館)が建てられたのは、20世紀初頭と決して歴史が長いわけではありません。
また、建造物として世界に建築の影響を与えたわけでもありません。
つまり、建物自体に歴史的価値がないと考えられているのです!
以上の理由から、”歴史の記憶を伝える”条件を満たしやすい登録基準(vi)のみで世界遺産に登録されています。
改めて負の遺産の存在意義をおさらいします。
- 記憶に留める
- 未来への教訓にする
上記を満たす登録基準は(vi)しかありません。
原爆ドームは他の登録条件を満たしようがない、しかし人類の過ちの歴史を記憶として残すために、(vi)のみでの世界遺産登録が認められているのです。
ただし、負の遺産以外の全ての文化財が(vi)のみでの世界遺産登録を許されると、膨大な数の世界遺産が誕生する恐れがあります。
世界遺産登録のハードルが低くなれば、そもそも世界遺産の存在意義に疑問を持たれてしまうことに繋がりかねません。
実際に登録基準(vi)のみで世界遺産に登録されている物件は、負の遺産と言われる物件以外ありません。
またたとえ負の遺産であっても、原爆ドーム以降に世界遺産に登録された下記の物件も、(vi)以外の条件を満たして登録されています。
世界遺産名称 | 登録年 | 保有国 |
---|---|---|
オーストラリアの囚人遺跡群 | オーストラリア | 2010年登録 |
ビキニ環礁核実験場 | マーシャル諸島 | 2010年登録 |
保存と世界遺産登録に向けての活動の歴史
現在も広島市内に建ち続けている原爆ドームですが、実は解体案も出されていたのです!
しかし最終的には保存されることが決まり、今に至ります。
戦後 | 風化や経年劣化などの恐れから、一時は解体が検討される。 しかし保存を希望する市民の声によって「平和の象徴」として保存されることが決まる。 |
---|---|
1966年 | 広島市議会にて原爆ドームの永久保存が決定する。 |
1967年 | 最初の保存工事が実施される。 |
1992年 | 広島市長が原爆ドームの世界遺産登録に動く。 しかし国から「文化財ではない」という理由で却下される。 |
1993年 | 「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が発足する。 |
1995年 | 「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」の影響で国会が動かされ、文化財保護に関する法律(文化財保護法の史跡指定基準)が改正される。 |
1996年 | 広島市民を中心とした動きが功を奏して、原爆ドームが世界遺産に登録される。 |
ちなみに保存工事は、1967、1989、2002年と何度も行われています。
また原爆ドームと同じく、世界平和をうったえるための重要な建物として、「広島平和記念資料館」があります。
資料館は原爆ドーム周辺に広がる「平和記念公園」の中に位置し、1955年に完成しました。
広島平和記念資料館には、被爆の惨状を物語る遺品などの資料が保存されています。
ただもちろん原爆ドームそのものが、被爆の惨状を物語る”巨大な遺品”とも言えます。
なお、原爆が投下された翌年の1946年8月には、最初の「平和復興祭」が開催され、現在も「平和記念式典」という名称で行われています。
原爆ドームの問題点
崩壊して残されたがれきの痕跡を見ることができる
原爆ドームは、大きく分けて下記の2点の問題を抱えています。
- 正しい歴史的背景を伝える役割の問題
- 保存と景観維持の問題
前者は、原爆ドームが世界遺産に登録された当時に上がった問題です。
後者は現在も抱える問題であり、現在進行形で問題解決に取り組んでいます。
原爆ドームの役割である「世界平和をうったえる」ことを続けるためにも、原爆ドーム自体の問題点を解決することは非常に重要となります。
全世界が納得のいく世界遺産登録ではなかった!?
原爆ドームが世界遺産に登録された1996年の世界遺産委員会では、出席したいずれの国からも反対の意見は出ず、満場一致で登録が決定しました。
(世界遺産委員会については、こちらの記事で詳細に解説してます)
しかし登録決定後に、原爆投下の当事者であるアメリカと中国からは、下記のような声明が出されています。
【アメリカの声明】
広島に原爆が落とされるまでの事件や経緯を説明する必要がある。また、戦争関連の物件の世界遺産登録が妥当かどうかを見直す必要がある。
【中国の声明】
原爆ドームの世界遺産登録が、第二次世界大戦中に起きていた虐殺などを否定し続ける人によって、悪用されないような体制を整える必要がある。
負の遺産は、世界平和を伝える上で極めて重要な文化財です。
加えて、正しい歴史の事実や過程を伝える役割もあります。
負の遺産は登録されて終わりではなく、登録されてから正しく伝えていくことで、負の遺産の存在意義が生じるのです!
保存の問題(安全な保存と景観維持)
広島市内では再開発が進んでいる
原爆ドームの保存において、下記の2つの問題が挙げられています。
- 安全に保存するための工夫
- 景観を損ねる都市開発
通常、世界遺産に登録されている文化財は、劣化や損傷が懸念・発見されると積極的な修復工事が行われる傾向があります。
一方で原爆ドームは、破壊された当時の姿をできる限り残す必要があるため、過度な修復工事を行うことができません。
とはいえ、残された骨組みやひび割れたコンクリートで支えられているため、劣化が進むと倒壊の危険性があります。
つまり、歴史が薄れるような過度な修復は行わずに、且つ安全に保存できる工事を進める必要があるのです!
さらに、近年は広島市内の各所で都市開発が進められています。
そして原爆ドーム周辺でも高層マンションの建設などが進められており、景観が損なわれるとして問題視されています。
(バッファーゾーンに関しては、こちらの記事で詳しく解説してます)
世界遺産登録範囲内、または近くでの再開発は厳重に制限されています。
その制限を破って開発が進むと「危機遺産リストへの登録」に、最悪の場合は世界遺産リストから登録抹消されることもあります。
このように原爆ドームは、「保存工事」と「景観維持」の2つの問題を抱えているのです。
本日の確認テスト
(「世界遺産検定」の概要についてはこちらの資料を参考にしてください)
3・4級レベル
『原爆ドーム』が満たしている世界遺産登録基準として正しいものはどれか。
- (ii)
- (iii)
- (iv)
- (vi)
④
答え(タップ)>>2級レベル
『原爆ドーム(旧:広島県産業奨励館)』の設計を担当した人物として正しいものはどれか。
- ポール・ブリュナ
- トーマス・グラバー
- ヤン・レツル
- ブルーノ・タウト
③
答え(タップ)>>1級レベル
『原爆ドーム』に関する説明として正しいものはどれか。
- 1966年に国会にて原爆ドームの永久保存が決定した。
- 原爆ドームの世界遺産登録に対して疑問を持ったアメリカとイギリスからは声明が出されている。
- 広島市内の再開発によって原爆ドーム周辺の景観が損なわれることが問題視されている。
- 小さな窓や石造の壁などが特徴的なロマネスク様式が採用されて建造された。
③
答え(タップ)>>まとめ
- 原爆ドームと呼ばれる前は「広島県物産陳列館」「広島県産業奨励館」という名称だった!
- 建物の設計を担当したのは「ヤン・レツル」!
- 「ネオ・バロック様式」「ゼツェッション様式」など当時の日本では珍しいモダンな様式が採用されていた!
- 『核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さをうったえるため』に原爆ドームは保存されている!
- 登録基準(vi)のみで世界遺産に登録されたが、原爆ドーム以降の文化財の登録では許されていない!
- 原爆ドーム周辺などで行われている再開発が景観を損ねると問題視されている!
おまけ:原爆投下の目標地は広島と長崎だけではなかった?
1945年8月6日 | 広島へ原爆(リトル・ボーイ)が投下される。 |
---|---|
1945年8月9日 | 長崎へ原爆(ファット・マン)が投下される。 |
上記2都市に原爆が投下された事実は、日本人なら誰もがわかっている歴史です。
しかし実は、広島、長崎に続く”第三の原爆”の投下の準備が進められていたのです!
そして、 第三の原爆投下の目標都市として挙げられていたのが「東京」なのです。
広島と長崎への原爆投下は、主に下記のような目的がありました。
- 街を破壊する。
- 原爆の破壊力を試す実験。
- 日本を降伏させる。
一方で東京への原爆投下の目的は、”日本に精神的なダメージを与える”ことでした。
アメリカは日本の首都に原爆が投下されれば、日本政府の考えを大きく変えることに繋がると考えたのです。
しかし、結果的には第三の原爆が投下されることはありませんでした。
なぜなら、1945年8月15日に日本が敗戦を認めたからです。
また他にも、あまり知られていない原爆投下に関する情報としては下記などがあります。
- 世界初の原爆投下の目標都市は、広島ではなく京都の予定だった。
⇨ 日本の古都を破壊すると余計に日本を怒らせてしまい、結果的に戦争が長引くと懸念して都市を変更した。 - 第二の原爆投下目標都市は長崎ではなく小倉(現在の北九州)の予定だった。
⇨ 原爆投下前日の小倉近くの八幡(福岡県)への空襲により、上空が曇っていて標準を合わせるのが難しかったため、予備都市だった長崎に変更された。
参考文献:「学校では教えてくれないッ!」さんのYoutube動画より
参考文献・注意事項
- 当記事の内容は「世界遺産検定1級公式テキスト<上>」と「世界遺産検定1級公式テキスト<下>」を大いに参考にしています。
- 当記事は100%正しい内容を保証するものではありません。一部誤った記載が存在する可能性があることをあらかじめご了承ください。