こんな方にオススメの内容!
- そもそも「富岡製糸場」「養蚕業」「絹」とは何なのかを理解したい!
- なぜ「富岡製糸場」が世界遺産登録されたのか理由が気になる!
- 富岡製糸場や日本の近代化の歴史を知りたい!
- 教養として世界遺産に関する知識を身につけたい!
- 世界遺産検定の受験を考えている!


遺産ポイント
- 世界遺産に登録されているのは「富岡製糸場」「田島弥平旧宅」「高山社跡」「荒船風穴」の計4施設
- フランスから「ポール・ブリュナ」を連れて製糸場の建設を開始
- 「清涼育」「清温育」など独自の蚕の飼育方法を発案
「富岡製糸場と絹産業遺産群」のプロフィール
富岡製糸場とは?世界遺産登録名称から分析

絹の原料である繭(まゆ)を貯蔵していた富岡製糸場の「西置繭所」
富岡製糸場と絹産業遺産群
まずは、上記の世界遺産登録名称を分解してみましょう。
- 富岡製糸場:”絹(生糸)”を生産する大規模な工場
- 絹産業遺産群:”絹”生産に大きく関わる複数の施設

世界遺産登録名称を見てわかる通り、今回の遺産のキーワードは「絹(きぬ)」です!
絹とは、蚕(かいこ)という幼虫がサナギになる際に吐き出す糸を加工して作られた繊維の一種です。

天然素材 | 絹(シルク) | 蚕から取れる”動物繊維” |
---|---|---|
麻(ヘンプ) | 植物の葉茎などから取れる”植物繊維” | |
綿(コットン) | 主にワタ科の植物から取れる”植物繊維” | |
人工素材 | 化学繊維 | 人間が人工的に作った繊維 |

つまり、主要な繊維の一つである「絹」生産に大きく貢献した複数の施設が、世界遺産に登録されているのです!


後述の「世界遺産に登録された理由」にて、富岡製糸場が世界遺産に登録された理由を詳しく解説します。
世界遺産に登録された理由

富岡製糸場入り口に置かれている歴史を感じる郵便ポストと看板
富岡製糸場と関連する施設が世界遺産に登録された理由は、大きく分けて下記の2つになります。
- 日本の近代化に大きく貢献した絹の大量生産の実績
- 海外との交流を発展させた歴史
もちろん、富岡製糸場ができる前までにも、日本の各地では絹の生産が行われていました。
しかし、富岡製糸場の完成によって国内での絹の生産量が飛躍的に伸びたのです!
さらに、日本で生産された絹は海外で評判となり、海外との交流を盛んにするきっかけを生むことにも繋がりました。

絹(生糸)の大量生産を実現させた実績

屋根に「やぐら」と呼ばれる空気通りのある蚕種飼育の伝統的な家屋
日本での絹生産が大幅に増加した主な理由は下記の2点です。
- 海外の技術を積極的に導入した(手作業から器械作業への転換など)。
- 富岡製糸場や関連施設での成功例を日本全国に広めた。
富岡製糸場が建設される明治以前の日本では、主に国内の技術や伝統に頼っていました。
そのため絹の生産には限界があり、生産量を飛躍的に伸ばすことができていませんでした。
しかし、海外の技術や伝統を取り入れてからは、絹生産が著しく伸びていったのです!

さらに、海外から得た情報・技術を日本全国に広めたことによって、日本全体で絹の生産量が飛躍的に伸びました。
加えて工場や農家が増えたことで、養蚕業(ようさんぎょう)に関わる人も増え雇用増加にも繋がったのです!

なお、富岡製糸場に海外の技術が導入された背景や、導入された具体的な技術などに関しては、後述の「富岡製糸場からの生糸産業&養蚕業発展の歴史」で詳しく解説してます。
海外との技術交流の発展に貢献

富岡製糸場の国宝「東置繭所」の入り口
富岡製糸場と関連する施設の稼働は、いくつもの場面で日本と海外との交流を盛んにしました。
- 海外技術の取り入れによる交流
- 日本産の絹や蚕種の輸出による交流
富岡製糸場の建設を決めた明治政府は、まず日本の技術者や指導者を海外に送り込みました。
反対に、海外の技術者を日本に迎え入れることも行いました。
このようにすることで、日本産業の現状を海外へ伝えつつ海外から最新の技術・情報を入手することに成功したのです!

また、富岡製糸場が稼働し始めて以降は、日本産の絹の海外への輸出も積極的に行われていきました。
なぜなら、当時海外ではなかなか絹を生産できていなかったため日本産の良質な絹の需要が非常に高かったからです!
(海外で絹生産が低下した理由は、後述の「日本の近代化の原動力!「鎖国」から「開港」へ」で詳しく解説してます)

このように、国内のみならず国境を超えて産業が活発になった背景にも、世界遺産登録への評価に大きく関わってくるのです!
富岡製糸場からの生糸産業&養蚕業発展の歴史

富岡製糸場の「西置繭所」からは製糸場の全景を眺められる
富岡製糸場やその関連施設ができる前から、日本各地には絹を生産する工場や農家がいくつもありました。
しかし、富岡製糸場が完成したことで、下記のような大きな変化が起きたのです。
- 絹(生糸)生産量が爆発的に増加した。
- ヨーロッパの最新の設備が次々と導入された。


当時、明治政府はとあるスローガンを掲げていました。
富国強兵・殖産興業
要するに、「経済を発展させて軍事力を強化し、ものの生産を増やして産業を活発にしよう」というものです。
そう、この”ものの生産を増やす”に該当したのが「絹(生糸)」なのです!
そして絹の生産を増やすためには、積極的に海外と交流を持つことが必要になってきました。
日本の近代化の原動力!「鎖国」から「開港」へ

富岡製糸場の「東置繭所」の外観
日本は絹の生産を飛躍的に伸ばすために、まず海外との交流を積極的に始めました。
というのも、日本は明治時代の一つ前の江戸時代では海外との交流を一切持たない「鎖国(さこく)」を行っていました。
つまり、海外の情報・技術を取り入れることがなかったのです。

しかし、鎖国状態が続いたことで下記のような問題に直面します。
- 主に手作業だったため絹の生産量は決して多くはなかった。
- 海外と比べて品質があまり良くなかった。
当時海外では、器械を導入して絹の生産をすることが主流でした。
そのため手作業に比べて生産量が多く、ミスも少ないため品質も良かったのです。
そこで明治政府は、海外から積極的に技術を導入することにしたのです!

また、「鎖国 ⇨ 開港」になった影響で横浜港が開港し、日本の製品を海外へ輸出することも可能になりました。
ここで明治政府は、日本で生産した良質な絹をどんどん海外へ輸出することを決めたのです!
さらに追い風が吹くように、当時海外では蚕が死滅してしまう病気が流行していたため絹の原料となる蚕の需要もありました。
そこで日本は蚕の育成にも力を入れて、海外の需要にこたえることに成功したのです!

ポール・ブリュナを連れて製糸場の建設へ

海外から輸入された器械の一つ「ブリュナエンジン」の復元
明治政府は、まず絹の生産に必要な大規模な工場を建設することを決めました。
この工場こそ「富岡製糸場」です!
従来の国内の工場と大きく違う点は、主に下記の2つです。
- 西洋建築を積極的に取り入れた建物
- 西洋技術を充実させた設備

まず、より働きやすく絹生産に適した工場を建設するために、フランスからとある人物を日本に連れてきました。
その人物とは、生糸技術者の「ポール・ブリュナ」です!
彼の指導のもと、西洋建築や技術をふんだんに導入した富岡製糸場の建設が進められていきました。
特に有名な造りが下記の2つです。
- 木骨レンガ造り
- トラス構造
木骨レンガ造り

「フランス積み」と言われ、大きさの異なるレンガを積み上げて建てられている
- 「和洋折衷」を取り入れた造り
- 木とレンガが組み合わさって外壁が造られている
- レンガは日本の瓦職人の手作り
ちなみに「和洋折衷」とは、日本と西洋の技術・文化を両方とも取り入れた形式のことを指します。
- 日本:日本古来の木造の柱を利用
- 西洋:西洋で主流のレンガ造で壁を強化

単純に西洋の技術を取り入れるだけではなく、日本の伝統様式も尊重して、他に類のない独特な造りを実現させたのです。
トラス構造

三角形で屋根を支えることで柱を減らすことができる建築技法
- 工場の空間を広く確保するために導入された構造
- 三角形構造にすることで柱が少なくても建物全体を支えることが可能になった。
「少しでも広い空間を確保する」
これは富岡製糸場を建設する上で、特に重視すべきポイントでした。
そこで、柱を少なくすることでより広い空間を実現させることを試みたのです!


ヨーロッパの修道院や大聖堂では、空間を広く保つために、古くからトラス構造を用いた建築が主流でした。
そのヨーロッパ伝統の建築技術を富岡製糸場にも採用したのです。
柱が少なくなったことで、工場で働く人の移動がスムーズになり、より効率的に絹の生産に勤しむことが実現しました。
富岡製糸場の稼働終了

残念ながら、現在は富岡製糸場や関連施設の稼働は止まってしまっています。
理由は主に下記の3点です。
- 絹に代わる化学繊維の普及が進んだ。
- より効率的に繊維を生産する最新技術が誕生した。
明治から大正、昭和に入ってからも、富岡製糸場をはじめとする各地の工場では絹の生産量を伸ばしていきました。
しかし、工場を管理していた政府から民間企業に管理が移って以降、化学繊維の普及などが伴い、次第に生産量が落ちていったのです。
比例して、絹の価格はどんどん下落していき、ついに1987年に富岡製糸場は操業を停止しました。


現在の富岡製糸場は、操業していた当時の姿のまま残されており、「世界遺産」と「国宝」という形で厳重に管理されています。
工場の建設地に富岡が選ばれた理由

高山社跡近くには「三名川」などが流れ良質な水の確保ができる


絹(生糸)産業の拠点として最初に富岡が選ばれた理由は、大きく分けて下記の4点です。
- 原料となる繭(まゆ)が入手しやすかった。
- 大きな工場を建設するのに十分な広い土地を確保できた。
- 製造に必須な良質な水を大量に確保できる環境だった。
- そもそも伝統的に養蚕が盛んな地域だった。
またそもそも、米、麦、豆などの稲作には少し不向きな環境だったという消去法的な意味合いもありました。
とはいえ、絹(生糸)という米などよりも高収入な産業を発展させることができたため、周辺農家にとっては良い結果となりました。
構成資産(富岡製糸場だけでは世界遺産登録されなかった!?)

構成資産の一つ「荒船風穴」
『富岡製糸場と絹産業遺産群』は、全部で4つの施設で構成されています。
- 富岡製糸場
- 田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)
- 高山社跡(たかやましゃあと)
- 荒船風穴(あらふねふうけつ)



実は、4つの施設で関連しあっている点こそ、世界遺産登録に大きく関係しています。
言い方を変えると、富岡製糸場のみでの世界遺産登録は非常に厳しかったのです!
厳しかったその理由としては下記が考えられます。
「絹を生産する工場(富岡製糸場)だけでは、顕著な普遍的価値を持つ遺産とは言い難い」

(顕著な普遍的価値に関しては、こちらの記事で詳しく解説してます)
要するに、富岡製糸場の価値を十分にアピールするには、他の施設との関係性もアピールする必要があったのです。

○チョコレート
いくらチョコレートが高級で美味しくても、そのチョコが高級品と言える理由を説明できなければならない。
⇨「産地」「原料」「こだわり」の説明を追加。
○富岡製糸場
いくら絹の生産が盛んだったとはいえ、他の場所での絹生産との違いを説明できなければならない。
⇨「原料となる蚕の育成方法」「育成場所」「伝統技法」の説明を追加。

仮にもし、富岡製糸場の敷地内で蚕の卵の生産や蚕の育成まで行っていた場合は、富岡製糸場のみで世界遺産登録がされていた可能性もあるのです。
富岡製糸場(とみおかせいしじょう)

和洋折衷のつくり「東置繭所」の正面
- 日本初の政府が開発した工場(官営工場)
- 当時日本最大の貯蔵能力を誇った絹生産工場
- 西洋建築と日本の伝統様式が入り混じった独特な建造物
- 積極的に西洋の器械が導入された
富岡製糸場の建設は、民間企業ではなく政府が担当しました。
なぜなら、富岡製糸場の建設は国家プロジェクトだったからです!


当時の民間企業の力では、西洋の技術を取り入れた近代的な工場の建設は困難でした。
そのため国が動いて工場建設に関わったのです。
このことからも、富岡製糸場の建設がいかに日本の産業発展に大きく貢献したかがわかるかと思います。

現在「東置繭所」の内部は資料館になっている
そして富岡製糸場での絹生産の成功例をもとに、次々と日本全国へ技術が広まっていきました。

当時の日本では非常に珍しく、富岡製糸場では「1日8時間労働、週休1日(日曜日が休み)」が導入されました。
つまり当時の富岡製糸場では、現在の日本の労働基準に近い労働環境が出来上がっていたのです!


田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)

世界遺産に登録されている田島弥平旧宅の「主屋(おもや)」
- 住人の名前は「田島弥平」
- 蚕の卵の生産方法である「清涼育」を完成させた
- 「越し屋根」など風通しの良い開放的なつくりをしている
- 世界遺産に登録されているのは「主屋(おもや)」のみ(1863年築)
- 1Fは住居、2Fは開放的な蚕室
- 独自の蚕育成方法を全国に広めた
「田島弥平旧宅」とは、その名の通り「田島弥平」という人物が暮らす住居です。
彼は、明治時代の実業家として有名な「渋沢栄一(しぶさわえいいち)」の指導のもと、「島村勧業会社」という株式会社を設立しました。
この会社の事業こそ、蚕の育成をメインとする養蚕業なのです。

彼の会社の特徴はなんと言っても、「清涼育」による蚕の卵の飼育です!
【清涼育の特徴】
- 蚕の卵の飼育に最適な”風通しの良い環境”で飼育する。
- 空気を循環させるために蚕室には「自由に開閉できる窓」「屋根にやぐら」などを備えている。



絹の原料となるまゆを生み出す蚕(右)と蚕が好んで食するくわの葉(左)
この田島弥平旧宅の造りは、またたくまに全国へと広がりました。
つまり、田島弥平旧宅は養蚕農家の原型と言えるのです!
なお、この住居の造りは田島弥平が記した「養蚕新論」という書物によって広まりました。
また、養蚕に勤しむ多くの人々が田島弥平旧宅まで訪れて清涼育の研修を受けていました。

高山社跡(たかやましゃあと)

門番をする人が過ごしていた「長屋門」
- 弥平から蚕の飼育について学んだ「高山長五郎」が生まれ育った家
- 「清温育(せいおんいく)」の研究と社員への指導を行っていた教育環境でもある
- 良質なまゆの安定供給を実現させた
- 敷地全体が世界遺産に登録(母家兼蚕室)
高山社跡は、前述の「田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)」と同様に、蚕の飼育に大きく貢献した住居です。
高山社跡で行われていた蚕の育成方法は「清温育」です!

【清温育の特徴】
- 清涼育と同じく風通しの良い家づくりにする。
- 各部屋に火鉢を置いて人工的に温度に変化を与えることができるようにする。


蚕が好んでよく食べる「くわの木」
また、高山社跡は蚕を飼育していた家だけでなく、蚕の好物であるくわの葉の保管室や、門番をする人が過ごす「長屋門」という重厚な門など、様々な建物が残されています。
以上のことから、蚕室のある家のみならず、敷地全体が世界遺産登録の範囲に指定されているのです!
荒船風穴(あらふねふうけつ)

現在は石垣のみが残る「荒船風穴」
- 蚕の卵を貯蔵するために必要な冷風が吹き出している山間部
- 冷風をうまく利用するために合計3つの貯蔵庫が建てられた
- まゆ生産の大幅な増量に大きく貢献した
他の3つの関連施設とは違い、荒船風穴は立地や自然のエネルギーを最大限に活かした施設です。
その自然エネルギーとは、岩の隙間から噴き出る「冷風」です!



冬に降った雪の雪解け水などが山の斜面にある岩などの隙間に溜まることで、夏であっても隙間の気温は氷点下に近い気温が保たれます。
この隙間に溜まった冷えた空気が、別の隙間から冷風のように流れ出ているのです!

現在も吹き続けている冷風を体験できる場所がある

この冷風を蚕の卵の貯蔵にうまく利用したことで、蚕の育成可能時期を増やすことが可能になり、飛躍的にまゆの生産量も増えていったのです!
なお、冷風の仕組みなど、荒船風穴の詳細に関しては下記の記事で解説しているので、ぜひ併せて読んでみてください。
合わせて読みたい!
富岡製糸場の名前は頻繁に変わっている

現在の正式名称は「旧富岡製糸場」
世界遺産の登録名称には、「富岡製糸場と絹産業遺産群」のように”富岡製糸場”と書かれています。
しかし、製糸場の名前は時代とともにコロコロ変わってました。
1876年 | 富岡製糸所 |
1909年 | 原富岡製糸所 |
1938年 | 株式会社富岡製糸所 |
1939年 | 片倉富岡製糸所 |
1946年 | 片倉工業株式会社富岡工場 |
なお現在、富岡製糸場は重要文化財に指定されており、重要文化財の登録名称は「旧富岡製糸場」になってます。
このように、時代によって名称が変わるケースはよくあります。
また、名称からその時の時代背景を見ることができるので、建物の名前は本当に奥が深いのです!
本日の確認テスト



(「世界遺産検定」の概要についてはこちらの資料を参考にしてください)
3・4級レベル
富岡製糸場の施設建設や技術導入に携わった人物名として正しいものはどれか。
- ブルーノ・タウト
- ポール・ブリュナ
- ヤン・レツル
- トーマス・グラバー
②
答え(タップ)>>2級レベル
製糸場の建設地として富岡が選ばれた理由として誤っているものはどれか。
- 労働に必要な人材の確保が容易だった。
- 製造に必須な良質な水を大量に確保できる環境だった。
- そもそも伝統的に養蚕が盛んな地域だった。
- 大きな工場を建設するのに十分な広い土地を確保できた。
①
答え(タップ)>>1級レベル
富岡製糸場の説明として正しいものはどれか。
- 富岡製糸場は世界遺産登録基準の(vi)が認められている。
- 富岡製糸場を建設する際には西洋と日本の建築様式が混ざった「ゼツェッション様式」が採用された。
- 田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)では風通しの良さを重視した蚕の飼育法である「清涼法」が確立された。
- 富岡製糸場の操業が停止した大きな要因は富岡の街の過疎化による労働者不足である。
③
答え(タップ)>>まとめ

- 世界遺産に登録されているのは「富岡製糸場」「田島弥平旧宅」「高山社跡」「荒船風穴」の計4施設。
- 「富国強兵・殖産興業」スローガンのもと明治政府主導で富岡製糸場の建設が行われた。
- フランスから「ポール・ブリュナ」を連れて建物の設計から導入器械の選定まで行われた。
- 国産の「絹」や「蚕種」を海外へ輸出したことで日本の近代化がより進んでいった。
- 富岡製糸場の造りのポイントは「木骨レンガ造り」と「トラス構造」。
- 化学繊維が普及したことや最新技術が誕生したことによって、各施設の稼働が終了した。
- 田島弥平旧宅では「清涼育」、高山社跡では「清温育」が発案された。
おまけ:「富岡製糸場」のプチ観光情報

富岡製糸場では毎日ガイドツアーが開催されている(有料)
最寄り駅 | 上州富岡駅 |
---|---|
開場時間 | 09:00〜17:00(最終入場 16:30) |
休業日 | 年末 ※要確認 |
見学料 | 大人:1,000円 高校生・大学生:250円 小中学生:150円 その他:無料 |
ガイドツアー | 大人:200円 中学生以下:100円 音声ガイド機の貸し出し:200円 |
駐車場 | 近隣の有料駐車場を利用 ※富岡製糸場専用の駐車場はありません。 |
富岡製糸場の最寄り駅である「上州富岡駅」から富岡製糸場までは、徒歩で約10分ほどと比較的近いです。
上州富岡駅にアクセスするまでも、東京駅から「上越・北陸新幹線」を利用して「高崎駅」まで行けば、1時間半ほどで着くことができため、都心からアクセスしやすい世界遺産の一つと言えます。

ただし、自家用車でアクセスする場合は、富岡製糸場専用の駐車場が無いため、近隣の有料駐車場を利用することになります。
必ず事前に駐車場の場所を把握しておきましょう。
富岡製糸場は”産業遺産”という、魅力を理解するのが少し難しい世界遺産です。
そんな時は、ぜひガイドツアーに申し込みましょう!

一方で、下記の3つの関連施設は、公共交通機関を利用してのアクセスは少し難しいです。
- 田島弥平旧宅
- 高山社跡
- 荒船風穴
ですので、世界遺産登録されている4つ全ての施設を訪れたい場合は車でアクセスすることをオススメします。
参考文献・注意事項
- 当記事の内容は「世界遺産検定1級公式テキスト<上>」と「世界遺産検定1級公式テキスト<下>」を大いに参考にしています。
- 当記事は100%正しい内容を保証するものではありません。一部誤った記載が存在する可能性があることをあらかじめご了承ください。