こんな方にオススメの内容!
- そもそも石見銀山が何かを理解したい!
- 石見銀山の世界遺産登録理由が気になる!
- 文化的景観が認められた理由を知りたい!
- 教養として世界遺産に関する知識を身につけたい!
- 世界遺産検定の受験を考えている!
- 島根への旅行を考えている!
遺産ポイント
- 17世紀の最盛期には世界第二位の銀産出量を誇った
- 灰吹法によって銀生産量が飛躍的に増加
- キーパーソンは神屋寿禎と大久保長安
- 周辺の自然環境に溶け込んでいるため文化的景観が認められている
「石見銀山」のプロフィール
登録名称 | 石見銀山遺跡とその文化的景観 |
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登録年 | 2007年(範囲拡大:2010年) |
所在国 | 日本(島根県) |
登録ジャンル | 文化遺産 |
登録基準 | (ii)(iii)(v) |
備考 | 文化的景観が認められている(詳細は後述) シリアル・ノミネーション・サイトを満たしている(詳細はこちらの記事で) |
そもそも「石見銀山」とは?
「石見銀山」とは、島根県大田市大森町に位置する、かつて銀の生産が盛んに行われていた山岳地帯です。
石見の銀山は日本最大の銀山であり、銀の生産量は最盛期時になんと世界第二位を誇りました。
現在は石見銀山での銀の採掘・生産は行われていませんが、今なお、銀生産が行われていた当時の施設の遺構や、銀生産に関わる人々の住居・街並みが残されています。
石見銀山の歴史
石見を代表する坑道「龍源寺間歩」の入り口
石見での銀生産は、16世紀ごろから始まりました。
一方で、銀生産だけでなく、昔の日本の都市繁栄の歴史を知る上でも、石見銀山の遺跡・遺構・建造物は非常に貴重なものとなっています。
1526年 | 石見銀山が発見される。 |
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1533年 | 「灰吹法(はえふきほう)」という新たな精錬法が導入され、石見での銀生産量が飛躍的に増加する。 |
1540年 | 高い技術を持つ職人集団が結成され、石見が国内での銀生産の最先端の地になる。 |
1550年 | これまで石見銀山を管理していた大内氏が亡くなり、次の銀山管理争いが繰り広げられる。争いの場は、銀山の防衛の役割を担っていた「矢筈城(やはずじょう)」や「石見城(いわみじょう)」。 |
1562年 | 石見の管理権限争いは毛利氏が制する。銀や物資の搬入出をするための街道が整備される。 |
1600年 | 石見が江戸幕府の管理下に置かれる。毛利氏に代わって大久保長安(おおくぼながやす)が鉱山運営を行うようになる。 |
1620〜1640年 | 石見産の銀がアジアのみならずヨーロッパまで広がり、石見銀山が最盛期を向かえる。周辺の町の人口が最大になる。 |
17世紀後半 | 銀の生産量が減少する。 |
1869年 | 石見銀山の管理が明治政府によって国から個人業者に移る。 |
1923年 | 休山する(銀生産の終了)。 |
石見での銀生産が飛躍的に伸びた最大の要因は、朝鮮から伝わってきた灰吹法(はえふきほう)という銀生産技術を導入したことです!
用語メモ
灰吹法(はえふきほう)とは、銀が含まれた岩(鉱石)を一度砕いて鉛に溶かし、銀と鉛の合金を作ってその後銀のみを取り出す方法。銀の生産量が増えただけでなく、銀の質が良くなり世界から好評を得た。灰吹法の導入により、銀の生産量は6倍以上にまで増え、さらに銀の質も良くなりました。
そして、石見銀山の最盛期ともいえる17世紀前半には、銀の生産量が年間約40トンにまで膨れ上がりました。
この数字は、石見で銀の生産が始まった頃の量のなんと20倍に相当します。
また、銀生産が盛んになった影響で、石見で生活する人の数も20万人まで増えました。
石見銀山の主要人物・組織
石見銀山に大きな変化が訪れる際には、必ずと言っていいほど新たな人物の活躍が影響しています。
石見銀山で活躍した主要人物・組織を時代順に並び替えると、以下の通りです。
- 大内氏+神屋寿禎(かみやじゅてい)
- 毛利氏
- 江戸幕府+大久保長安(おおくぼながやす)
- 明治政府
なお、明治政府以降は国の方針により石見銀山の管理が個人の業者に移されることになります。
大内氏と神屋寿禎の時代
石見銀山の行政を司った歴史を持つ「代官所跡」
1526年に石見銀山が発見されてから最初に銀生産に着手したのが、当時大規模な商売をしていた大内氏です。
そして大内氏とタッグを組んだのが、灰吹法の導入に関わった神屋寿禎です。
つまり、石見銀山を日本最大の銀生産地にするきっかけをつくったのが、大内氏と神屋寿禎なのです!
毛利氏の時代
武家屋敷が立ち並ぶ「大森地区」
大内氏の後を引き継いで石見銀山経営に関わったのが、当時の日本で大きな力を持っていた毛利氏です。
他にも候補の人はいましたが、毛利氏が矢筈城(やはずじょう)や石見城(いわみじょう)などで行われた争いに勝利したため、石見銀山はその後数十年は毛利氏の管理下に置かれます。
そして毛利氏の管理下時代に、石見には2つの重要な街道が整備されました。
- 鞆ヶ浦道(ともがうらどう)
- 温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう)
(2つの街道の詳細は後述してます)
こうして石見銀山は、毛利氏時代に更なる繁栄へと向かっていったのです。
江戸幕府と大久保長安の時代
大久保長安が名前の由来になった石見最大級の坑道「大久保間歩」の内部
江戸幕府が管理している時代に、石見は最盛期を向かえます。
最盛期を向かえた最大の要因は、石見産の銀が世界中に輸出されたためです!
そして、この時代の中心人物が大久保長安(おおくぼながやす)です。
長安は江戸幕府のリーダーである徳川家康から任命され、日本全国の金銀鉱山の管理をしました。
長安が石見で行った具体的な政策は、以下の通りです。
- 間歩(まぶ)の開発
- 銀採掘の新たな拠点「大森地区」の整備
- 銀山経営の一部を「山師(やまし)」と呼ばれる民間業者に委ねる
用語メモ
間歩(まぶ)とは、人の手によって地下に作られた通路(坑道)を指す。金鉱石や銀鉱石を採掘する際に掘られるケースが多く、資源が眠る場所によっては数千メートルもの通路が作られることもある。ちなみに、大久保長安が管理していた時代に誕生した間歩は、「大久保間歩」という名称で今なお残されています。
(大久保間歩の観光詳細については後述の「自由に観光できる場所は?予約が必須な場所は?」で解説してます)
世界遺産登録理由
石見銀山が世界遺産登録された理由は、大きく下記の3点に分けられます。
- 銀の生産によって文化交流や世界経済に大きな影響を与えた
- 銀生産に関する遺構・建物が数多く残されている
- 自然と一体となった伝統的な街並みが見られる
理由1:銀の生産によって文化交流や世界経済に大きな影響を与えた
石見で生産された銀は、アジアやヨーロッパなど世界中に広がっていきました。
その結果、石見は世界を代表する商業都市として繁栄し、世界経済に大きな影響を与えたのです。
また、朝鮮で誕生した銀の採取方法である灰吹法が石見で導入されるなど、技術的・文化的な交流をもたらした点についても高い評価を受けています。
石見銀山のように、産業発展に関わる世界遺産の場合は登録基準の(ii)が認められる傾向があります。
(登録基準に関してはこちらの記事で詳しく解説してます)
理由2:銀生産に関する遺構・建物が数多く残されている
銀の精錬が行われた施設跡「清水谷精錬所跡」
石見銀山は世界的に珍しく、銀の生産が行われていた当時の遺構や建造物が良好な状態で数多く残されています。
石見銀山で遺構や建造物が良好な状態で残されている要因として、下記の3点が挙げられます。
- 海外の最新技術の導入が遅かった
- 大規模な開発を行わなかった
- 銀が取れなくなるのと同時に採掘活動が停止された
石見銀山が最盛期を向かえた江戸時代の日本は、鎖国によって海外との交流を絶っていました。
その結果、日本の伝統技術や伝統家屋などが保たれたのです。
さらに、海外でよく見られる大規模な開発や過度な採掘活動が行われなかったため、銀が取れていた当時の姿を今なおとどめているのです。
また、石見では下記のような銀生産の全体像が見られる点も特徴の一つです。
- 銀鉱石(銀が混ざっている岩)の採掘
- 銀鉱石から銀の取り出し
- 銀や必要物資の運搬
- 国内外への銀の搬出
上記の過程に関わる建造物は、遺構、遺跡、建物として今なお残されています。
理由3:自然と一体となった伝統的な街並みが見られる
銀採掘や精錬の中心「銀山柵内」周辺には多くの神社が建てられている
石見銀山やその町の周辺は、深い森や山や海に囲まれています。
そして、銀生産に使われた遺跡や街道、港などは現在も山林の景観に溶け込んで存在しているのです。
このように、人々の生活が自然環境に溶け込んでいる姿が見られる点は、文化的景観という点で高い評価を受けています。
(文化的景観については、こちらの記事で詳しく解説してます)
このように、自然環境近くで誕生した農業や工業は、人間と自然環境の接点が見られたり、土地利用のあり方を示されている貴重な遺産と言えるのです。
構成資産
銀や物資の搬出が行われていた歴史ある港として構成資産に含まれている「沖泊(おきどまり)」
『石見銀山遺跡とその文化的景観』は、大きく分けて「銀鉱山跡」「街」「城」「街道」「港&港町」の5つのジャンルに分けることができます。
銀鉱山跡 | 銀山柵内(大久保間歩、龍源寺間歩、清水谷精錬所跡、他) |
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街 | 大森地区、宮ノ前地区、代官所跡、熊谷家住宅、羅漢寺五百羅漢 |
城 | 矢滝城跡(やたきじょうあと)、矢筈城跡(やはずじょうあと)、石見城跡(いわみじょうあと) |
街道 | 鞆ヶ浦道(ともがうらどう)、温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう) |
港&港町 | 鞆ヶ浦港、沖泊(おきどまり)港、温泉津 |
さらに細かく分けると、石見銀山は14の構成資産で世界遺産登録されています。
このように複数箇所に資産が点在しているため、石見銀山はシリアル・ノミネーション・サイトの世界遺産として登録されています。
(シリアル・ノミネーション・サイトに関しては、こちらの記事で詳しく解説してます)
銀山柵内(ぎんざんさくのうち)
一般の観光客が訪れることができる坑道として人気の「龍源寺間歩(りゅうげんじ)」の内部
- 石見銀山の銀生産の中心地
- 銀鉱石から銀の採取をするまでの工程を行っていた施設の密集地
- 「龍源寺間歩」「大久保間歩」などの坑道も含まれる
「銀鉱石の採掘」「銀の取り出し(精錬)」という、銀生産に置いて重要な2つの工程が行われていた地域が、銀山柵内(ぎんざんさくのうち)です。
16〜20世紀にかけて稼働し、同地域には「龍源寺間歩」「大久保間歩」をはじめとする600もの小規模な手掘りの間歩が残されています。
他にも、「清水谷精錬所跡(しみずだにせいれんじょあと)」など、精錬(銀の取り出し)施設の遺構なども残されています。
街(大森地区、他)
「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている「大森地区」の古い街並み
- 銀生産に関わった人々が暮らしていた集落
- 大きく「銀山地区」と「大森地区」に分けられる
- お偉いさんが過ごした住居なども残されている
主に前述の「銀山柵内(ぎんざんさくのうち)」で仕事をしていた人々が暮らしていた地域が大森地区です。
大森地区には伝統的な家屋が数多く残されており、「大森銀山重要伝統的建造物群保存地区」という名前で厳格に保護・保全されています。
また他にも、「熊谷家住宅(くまがいけじゅうたく)」「代官所跡(だいかんしょあと)」といったお偉いさんの住居や、「羅漢寺五百羅漢(らかんじごひゃくらかん)」という石見に暮らす人々が信仰するために建てられたお寺も世界遺産に登録されています。
このように大森地区では、当時の暮らしの様子を物語る様々な遺構た建物が良好な状態で残されているのです。
(防衛のための)城
各城は見晴らしの良い山頂付近に築かれた(現在は森林に覆われている)
- 銀鉱山の防衛のために建てられた城
- 一部の石垣と岩山が残されているのみ
かつて石見には、銀鉱山が敵に奪い取られないようにするための城が複数存在してました。
代表的な城は下記の3つです。
- 矢滝城跡(やたきじょうあと)
- 矢筈城跡(やはずじょうあと)
- 石見城跡(いわみじょうあと)
名称に”跡”と入っているように、現在は城らしい姿は見られず、一部の石垣と岩山のみが残されています。
街道(鞆ヶ浦道、温泉津沖泊道)
街道は銀採掘現場と銀を搬出する港を結ぶ
- 銀や物資を街と港に運ぶためのルート
- 毛利氏時代に整備され始めた
前述の「石見銀山の歴史」でも少し触れたように、銀生産が盛んになり始めた16世紀に入ると、銀鉱山・集落と銀を国内外へ搬出する港の間を結ぶ2つの街道が整備されました。
- 鞆ヶ浦道(ともがうらどう)
- 温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう)
生産された銀を運ぶ際は「銀鉱山・集落 ⇨ 港」へ。
銀鉱山・集落で必要な物資を運ぶ際は「港 ⇨ 銀鉱山・集落」へ。
街道が整備されたことで、よりスムーズに銀生産が行えるようになり、結果的に銀の生産量が飛躍的に伸びることに繋がりました。
港&港町(鞆ヶ浦、沖泊、温泉津)
江戸時代末から銀や物資の搬出が行われていた温泉津港は現在も漁港として利用されている
- 世界遺産登録されている港は「鞆ヶ浦(ともがうら)」「沖泊(おきどまり)」の2カ所
- 主な役割は銀鉱石・銀の積み出しと生活に必要な物資の搬入
- 港の発展に伴い誕生した温泉街が「温泉津(ゆのつ)」
石見で生産された銀が国内外に輸出される際の玄関口となった港が、「鞆ヶ浦」と「沖泊」の2カ所です。
基本的には、一度博多(福岡県)に運ばれて国内外へと輸出されていきます。
さらに、港の発展に伴い港周辺に人が集まったことで、「温泉津(ゆのつ)」と呼ばれる温泉街が誕生しました。
港周辺での商業の中心として大きく繁栄し、16世紀には日本海側最大の港として賑わいを見せました。
なお、温泉津は「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」という名称で厳格に保護・保全されています。
なぜ文化的景観?
銀鉱山近くの谷間に築かれた「大森地区」には銀採掘に勤しむ人々などが生活していた
世界遺産登録名称にも含まれているように、石見銀山は文化的景観の評価を受けた世界遺産です。
文化的景観として評価されたポイントは、前述の「理由3:自然と一体となった伝統的な街並みが見られる」でも解説したように、人々の生活が自然環境に溶け込んでいる姿が見られるためです。
銀山の近くには、”薪炭材(しんたんざい)”と呼ばれる、炭などの燃料用に適した木がたくさんありました。
そのため、銀を取るときの燃料としてだけでなく、日常生活を送る際の木としての利用もできたのです。
このように、周辺の木が石見の住民たちの生活の支えになっていた影響もあり、山林に集落が形成されていったのです。
課題・問題点と登録範囲拡大の理由
環境保護のため一部の地域で車両の乗り入れが厳しく制限されている
石見銀山は、主に下記のような問題を抱えています。
- 文化的景観に関わる登録基準(v)の証拠が不十分
- 観光客の受け入れに関する問題整理ができていない
- 歴史的建造物の保護政策が具体的に示されていない
- 未発掘の遺跡や木に覆われてしまっている遺跡の重要性のアピールが不十分
- 水質汚染が起きている
- 新しい自動車道の建設への対策が示されていない
このような複数の問題を解決するために取った対策は、銀山や関連施設だけでなく、街道(鞆ヶ浦道、温泉津沖泊道)や集落(大森地区)なども世界遺産の登録範囲に含めることです!
登録範囲に含めることで、保全体制をより充実させることができます。
結果、石見銀山が世界遺産登録された3年後の2010年に
「442.4ha → 529.17ha」
上記の広さへ登録範囲の変更が正式に認められました。
本日の確認テスト
(「世界遺産検定」の概要についてはこちらの資料を参考にしてください)
3,4級レベル
世界各国との貿易に深く関わり石見に灰吹法を導入するなどをした人物として正しいものはどれか。
- 吉田松陰
- 神屋寿禎
- 島津斉彬
- 長谷川角行
②
答え(タップ)>>2級レベル
『石見銀山遺跡とその文化的景観』の構成資産として誤っているものはどれか。
- 鞆ヶ浦
- 旧崎屋橋跡
- 温泉津
- 代官所跡
②
答え(タップ)>>1級レベル
『石見銀山遺跡とその文化的景観』に関する説明として正しいものはどれか。
- 大内氏が亡くなって以降の銀山管理は政府の指示により毛利氏が後を受け継ぐことになった。
- 銀採掘に関する遺構だけでなく大森地区や温泉津など銀生産・搬出に関わる地域も含めて2007年に世界遺産登録された。
- 石見産の銀は鞆ヶ浦や沖泊から直接中国をはじめとする世界各国へ搬出された。
- 石見が江戸幕府の管理下に置かれてから大久保長安によって鉱山運営が行われた。
④
答え(タップ)>>まとめ
- 石見銀山とは16世紀以降に銀生産が盛んに行われた山岳地帯。
- 神屋寿禎による灰吹法の導入により銀の生産量が飛躍的に伸びた。
- 毛利氏によって銀や物資を運ぶための「鞆ヶ浦道」「温泉津沖泊道」が整備された。
- 大久保長安による鉱山管理や世界中への銀の輸出に伴い石見銀山が最盛期を向かえる。
- 人々の生活が自然環境に溶け込んでいる姿が見られる点は文化的景観として評価を受けている。
- 14の構成資産からなるシリアル・ノミネーション・サイト。
- 銀山柵内では銀鉱石の採掘と銀の取り出しが行われていた。
- 大森地区は銀生産に関わる人々が暮らしていた町。
- 代表的な港は「鞆ヶ浦」「沖泊」で港の発展に伴い「温泉津」温泉街も誕生。
- 問題・課題を解決するために2010年に世界遺産登録範囲が拡大された。
おまけ:「石見銀山」のプチ観光情報
石見銀山観光の拠点となる「石見銀山世界遺産センター」
最寄り空港 | 萩・石見空港 or 出雲空港 |
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最寄り駅 | JR山陰本線大田市駅 |
入場料 | 龍源寺 大人:350円、高校生:250円、中学生以下:200円 大久保間歩 大人:3,700円、中学生以下:2,700円 ※小学生未満の入場不可 |
休館日 | 施設によってあり |
混雑度 | 比較的空いている |
観光のベストシーズン | 4〜11月(12〜2月は冬季休業している施設あり) |
目安観光時間 | 龍源寺間歩:1時間 大久保間歩:2時間 大森地区:2時間 その他:各1時間前後 |
公式ホームページ | https://ginzan.city.oda.lg.jp/ |
石見銀山のある地域は冬季は雪が積もることがあるため、冬季休業している施設があるかどうか事前に確認しておきましょう。
また、決して公共交通機関が整っている地域ではないため、レンタカーで訪れるのがおすすめです(公共交通機関でのアクセスも可能)。
アクセス
石見銀山の人気観光地「大森地区」には数カ所の駐車場があるため自家用車で訪れることができる
石見銀山周辺には、「出雲空港」と「萩・石見空港」の2つの空港があります。
所要時間は異なりますが、それぞれの空港から公共交通機関を使って石見銀山へアクセスすることは可能です。
【出雲空港利用の場合】
- 全国各空港 ⇨ 出雲空港 [空港リムジンバス:約30分] ⇨ 出雲市駅 [山陰本線特急:約20分] ⇨ 大田市駅 [大森線バス:約30分] ⇨ 石見銀山世界遺産センター
【萩・石見空港利用の場合】
- 全国各空港 ⇨ 萩・石見空港 [徒歩:約15分] ⇨ 松ヶ丘病院前バス停 [久城・蟠竜湖線バス:約15分] ⇨ 益田駅 [山陰本線特急:約20分] ⇨ 大田市駅 [大森線バス:約1時間30分] ⇨ 石見銀山世界遺産センター
- 曜日や時間帯によってバス運行本数に変更あり。
一方で、もし車で来た場合は、環境保全のため世界遺産地域外の駐車場に車を止めて、世界遺産地域内は徒歩や路線バスで周ることになります。
自由に観光できる場所は?予約必須な場所は?
石見銀山最大級の坑道「大久保間歩」へはツアー参加でのみ訪れることができる
- 大久保間歩ツアーは事前予約必須(人数限定)
- 人気の龍源寺間歩は予約不要
- 大森地区は徒歩で周れる広さ
『石見銀山遺跡とその文化的景観』の14の構成資産をすべて見て周るには、最低2日は必要です。
(14の構成資産については後述しています。)
石見の2大人気間歩として知られているのが、「大久保間歩」と「龍源寺間歩」です。
大久保間歩は日本最大規模の間歩であり、ツアーのみでの訪問が可能なため、事前にネットでツアーの予約をしておきましょう。
(ツアー予約はこちらから)
一方で、龍源寺間歩はツアー参加無し&事前予約不要で訪れることができるため、時間が無い方や事前に当日の予定がわからない場合は、龍源寺間歩を訪れてみましょう。
美しい木造家屋が立ち並ぶ鉱山街として有名な「大森地区」は、構成資産が点在する人気スポットです。
徒歩で周れるぐらいの広さなので、初めて石見銀山を訪れる方でも観光しやすいのが魅力です。
なお、宿泊施設は石見銀山周辺で最も大きな駅である大田駅周辺、または世界遺産の温泉街として知られる温泉津(ゆのつ)付近に集中しています。
どちらも石見銀山へのアクセスは良いので、大田駅周辺、または温泉津を石見銀山観光の拠点にするのがオススメです。
参考文献・注意事項
- 当記事の内容は「世界遺産検定1級公式テキスト<上>」と「世界遺産検定1級公式テキスト<下>」を大いに参考にしています。
- 当記事は100%正しい内容を保証するものではありません。一部誤った記載が存在する可能性があることをあらかじめご了承ください。