こんな方にオススメの内容!
- なぜ石見銀山が世界遺産に登録されたのか理由が気になる!
- 教養として世界遺産に関する知識を身につけたい!
- 世界遺産検定の受験を考えている!
- 日本の産業遺産の歴史に興味関心がある!
- 次の旅行先の候補地を探している!


遺産ポイント
- 神屋寿禎による開発から石見銀山の歴史がスタートする!
- 統治した歴代の大名らによって「鞆ヶ浦港」「温泉津温泉街」「街道」などが整備される!
- 一大銀の産地となった石見の銀は世界的ブランドとなり海外交易の拠点にもなる!
「石見銀山遺跡」のプロフィール
登録名称 | 石見銀山遺跡とその文化的景観 |
---|---|
登録年 | 2007年(2010年:登録範囲変更) |
所在国 | 日本(島根県) |
登録ジャンル | 文化遺産 |
登録基準 | (ii)(iii)(v) |
備考 | 「銀鉱山跡」「鉱山街」「街道」「港」などの14の構成資産からなる 文化的景観 |
そもそも石見銀山とは?

石見の銀の採掘場跡




簡潔にまとめると石見銀山とは
- 銀が眠っている大きな山が見つかる!
- その銀を採掘するために様々な開発がされる!
- 開発に必要な道や建物が次々と建てられる!
- 採掘した銀を海外に売ってさらに街が潤う!
- この時使われた建物や技術・海外との交易に価値があるとして世界遺産に登録される!
ざっくりとこんな感じです。
ちなみに石見地方が銀採掘に適してるのは、ただ銀が見つかったという単調な理由ではなく、周辺に銀生産や住民の生活で必要な薪炭材を供給してくれる森林があったことも大きく影響しています!
またこの銀で繁栄した街の景観は、何百年も経った今もなお自然と一体化した姿を見ることができることから、「文化的景観」が認められました!
(”文化的景観”についてはこちらの記事で解説しています)


歴代の大名によって次々と開発が進められた銀鉱山




銀山の発見&神屋寿禎による開発



16世紀に石見地方で銀が発見されたことによって採掘が行われるようになりなした。
この銀鉱山の発見後、開発に名乗りを上げた人物が神屋寿禎(かみやじゅてい)です!
寿禎はもともとの活動拠点であった博多から技術者を連れてきて、「灰吹法(はいふきほう)」という技術を使いさらに銀の生産量を飛躍的に伸ばしたのです。


銀の採掘のため手で掘られた坑道が数多く作られました。
この坑道のことを「間歩(まぶ)」と言います。

また、この時代には産出した銀鉱石を博多まで送っていたため、「鞆ヶ浦(ともがうら)港」や「沖泊(おきのどまり)港」などの港の整備も進められました。
そして港が整備されたことにより、港周辺にはどんどん人が移り住み集落も形成されていきました。
港の周りに人々が集ったことにより、港周辺には温泉街や集落が形成されたので、「銀が街を作った」と言っても過言ではありません。
こうして石見地方は、銀の精錬技術の最先端の地となりました。

銀山の争奪戦の勃発&毛利氏の統治時代

16世紀半ばには、これまで統治していた大内氏は内紛により滅亡してしまいました。
そこで次にこの石見銀山を統治したい大名達によって争奪戦が勃発しました!


ちなみにこの争奪戦は当時銀山の防衛の役割を担っていた
- 矢筈城(やはずじょう)跡
- 石見城(いわみじょう)跡
この2拠点が主戦場となってました。
現在はともに世界遺産に登録されています。
この毛利氏統治時代での大きな街の変化としては、銀の搬出や鉱山に必要な物資の運搬をするために必要な「街道」が整備された点です!
整備された街道は主に下記の2つです。
- 輸出の拠点である鞆ヶ浦港まで続く「鞆ヶ浦(ともがうら)道」
- 沖泊港や温泉街まで続く「温泉津(ゆのつ)沖泊道」
街道が整備されたことにより、これまで以上に運搬に必要な時間の削減を実現させることができました!


大久保長安時代の銀採掘の最盛期

石見地方での銀の生産によって栄えた「大森地区」
17世紀以降、石見銀山は徳川幕府によって統治されるようになりました。
この時代に銀山経営の中心を担っていたのが大久保長安(おおくぼながやす)です。
そして銀山経営の新たな拠点として、「大森地区」の整備を進めていきました。




また銀山の経営の一部を民間業者にも任せるなど、長安は様々な改革を打ちました!

様々な改革を打ったことにより、銀の産出量は増加の一途をたどりました。
そう、この長安が統治していた17世紀前半が石見銀山の最盛期だったのです!
その後銀の産出量は徐々に減り、19世紀には石見銀山は明治政府によって個人業者へと払い下げらました。
そして休山となったのです。
石見銀山の銀は国内ブランドから世界的ブランドへ




16世紀前半は中国や朝鮮との貿易が盛んに行われ、博多港経由で銀鉱石が輸出されてました。
銀の産出量が最盛期を迎えていた17世紀前半には、近隣諸国だけでなくヨーロッパなど世界中に石見産の銀が流通することになりました。
こうして石見地方は日本における海外との重要な交易拠点となり、様々な文化や物資などもここ石見から入ってきました。


また銀の価値だけでなく、日本独自の金属採掘技術の発展も優れいるという評価も世界遺産登録に大きく影響しました。
本日の確認テスト


(「世界遺産検定」の概要についてはこちらの資料を参考にしてください)
3, 4級レベル
博多から技術者を連れてきて「灰吹法」技術を導入した人物を選びなさい。
- 大久保長安
- 夢窓疎石
- 長谷川角行
- 神屋寿禎
④
答え(タップ)>>2級レベル
「灰吹法」の説明として正しいものを選びなさい。
- 有機抽出剤を使用して銀イオンを抽出する精錬技術。
- 一度鉛に溶かしてから銀を取り出す精錬技術。
- 炭鉱石を用いて一気に熱を加えてから銀を固める精錬技術。
- 一度銅と混ぜてその後銀を抽出する精錬技術。
②
答え(タップ)>>1級レベル
石見銀山遺跡の説明として誤っているものを選びなさい。
- 16世紀半ばに矢筈城跡などを主戦場に石見銀山の統治権争いが繰り広げられた。
- 銀山経営の新たな拠点として神屋寿禎により大森地区の整備が進められた。
- 17世紀前半にはヨーロッパなど世界中に石見産の銀が流通することになった。
- 毛利氏統治時代に銀の搬出や鉱山に必要な物資の運搬をするために必要な「街道」が整備された。
②
答え(タップ)>>「石見銀山遺跡」のまとめ

- 石見地方は銀の発見と銀生産や生活をする上で必要な薪炭材が見つかったことから銀採掘に適した環境だった!
- 神屋寿禎による開発から始まり整備された「間歩」「鞆ヶ浦港」「街道」「矢筈城跡」などの史蹟が数多く残っている!
- 「灰吹法」という精錬技術を用いるなどして銀の生産量をさらに高めていった!
- 大久保長安による大森地区の整備などが進み17世紀前半に銀産出の最盛期を迎えた!
- 石見地方は銀の産地に留まらず銀の海外輸出とともに日本における海外との重要な交易拠点にもなった!
参考文献・注意事項
- 当記事の内容は「世界遺産検定1級公式テキスト<上>」と「世界遺産検定1級公式テキスト<下>」を大いに参考にしています。
- 当記事は100%正しい内容を保証するものではありません。一部誤った記載が存在する可能性があることをあらかじめご了承ください。