こんな方にオススメの内容!
- プラハの街が世界遺産登録された理由が気になる!
- プラハの美しい街並みが誕生した背景や歴史ついて詳しく知りたい!
- 教養として世界遺産に関する知識を身につけたい!
- 世界遺産検定の受験を考えている!
- チェコへの旅行を考えている!
遺産ポイント
- 神聖ローマ帝国の国王としてカール4世が即位したことをきっかけにプラハの街づくりが本格化
- プラハ城、カレル大学など歴史的価値のある建造物がいくつも現存
- ハプスブルク家を迎え入れたことでプラハのカトリック化が加速
「プラハ」のプロフィール
登録名称 | プラハ歴史地区 |
---|---|
登録年 | 1992年 |
所在国 | チェコ |
登録ジャンル | 文化遺産 |
登録基準 | (ii)(iv)(vi) |
そもそも「プラハ」とはどんな街?
ヴルタヴァ川沿いを中心に発展した歴史を持つプラハの街並み
プラハとは、数百年経った現在も中世の街並みが色濃く残っている、中欧(中央ヨーロッパ)の国チェコの首都です。
歴史上、様々な国の政治、経済、文化、学問の中心都市として機能してきたため、”黄金のプラハ”と称されるほど重要な都市として発展してきました。
様々な国の中心都市として発展した結果、街中には城や大聖堂などの巨大な建物が多く建造されていき、現在見られるような歴史的に価値のある街並みが誕生したのです。
一方で、プラハは複数の宗教間で起こった戦争の舞台になったという歴史も持っています。
戦争の詳細については、後述の「プラハの街の歴史」で解説します。
プラハの街の歴史
プラハの街の起源は、なんと約1,500年も前までさかのぼります。
6世紀後半 | 当時、中欧〜東欧で暮らしていた民族(スラヴ人)がヴルタヴァ川(モルダウ川)の岸辺に集落を築き始める。 ⇨現在のプラハの街の起源 |
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7世紀 | ヴルタヴァ川周辺の丘の上に砦を築く。 |
9世紀後半 | ヴルタヴァ川の左側に城塞が築かれる。 ⇨この城塞が後にプラハ城となる。 |
10世紀 | ヴルタヴァ川の右側にも城が建造される。 ⇨両端の2つの城に挟まれたエリアに人口が集中し始める。 |
10世紀末 | プラハにカトリック教会(キリスト教の宗派の1つ)の最高役職の座席(司教座)が設置される。 ⇨カトリック教会の重要な拠点となり、街の人口が増え始める。 |
14世紀半ば | ボヘミア王国(当時のプラハの国名)の王様カレル1世がカール4世に名を改めて神聖ローマ皇帝として就く。 ⇨プラハが神聖ローマ帝国の首都となった瞬間。 |
旧市街の隣に新市街の建設が開始される。 | |
15世紀初頭 | キリスト教の宗派の間で発生した争いに巻き込まれる。 ⇨フス戦争の勃発。 |
16世紀 | カトリック教会で大きな力を持つ一族であるハプスブルク家を国王に迎える。 ⇨プラハのカトリック化がさらに進む。 |
17世紀前半 | 「カトリック VS プロテスタント(カトリックから分離した宗派)」の争いが勃発する。 ⇨この争いが後に起こる三十年戦争のきっかけとなる。 |
用語メモ
三十年戦争とは、17世紀ごろから始まった宗教の対立が火種となった戦争。最初は一部の地域で起こった戦争だったが、その後他の宗派や周辺国を巻き込み、ヨーロッパ最大規模の宗教戦争へと発展していった。プラハの歴史を語る上で重要なワードは、以下の2つです。
- カトリック化
- 宗教戦争
用語メモ
カトリックとは、キリスト教最大の宗派。他には、カトリックから分離したプロテスタントや正教会がある。プラハのカトリック化が進むにつれて市街地の面積と人口が増えていき、10世紀ごろにはヨーロッパ随一の巨大都市へと成長しました。
さらに、15世紀と17世紀に宗派間で大きな争いが発生しました。
争いはカトリック教会が勝利する形で幕を閉じ、その結果さらにプラハにカトリックが浸透していくことに繋がったのです。
なお、この宗教による戦争はヨーロッパにおける”最後の宗教戦争”と言われており、プラハのみならず、ヨーロッパの宗教史上でも重要な出来事として知られています。
プラハの象徴的人物カール4世&ヤン・フス
プラハの歴史を揺るがした人物として、以下の2名が挙げられます。
- カール4世:プラハ出身の人物として初めての神聖ローマ皇帝になる。
- ヤン・フス:キリスト教の改革を推し進めた。
カール4世は、プラハが神聖ローマ帝国の首都として定められた際の皇帝に選ばれた人物です。
彼は”プラハを帝都にふさわしい街にする”というスローガンを掲げ、世界各国の芸術家を集めたり、プラハ最古の大学「カレル大学」を創設するなど、様々な取り組みをしました。
一方で、ヤン・フスはキリスト教を改革することを掲げた人物です。
しかし、改革に反対するカトリック教会の人々によって処刑されてしまいます。
その処刑に不満を垂らした人々(フス派)が反撃を開始したことで、キリスト教の宗派間で大きな戦いが繰り広げられたのです。
このように2人の人物によって、プラハは街の整備と宗教の確立が行われていったのです。
世界遺産登録理由
『プラハ歴史地区』が世界遺産登録された理由は、大きく下記の3点に分けられます。
- 様々な国の首都として発展した歴史
- 他の都市に影響を与えた美しい街並み
- ヨーロッパ中を揺るがす出来事が起こった歴史的な街
理由1:様々な国の首都として発展した歴史
プラハは神聖ローマ帝国の首都として繁栄した時代もあった
世界遺産登録理由の1つ目は、様々な国の首都として発展した歴史に価値があると評価されたためです。
前述の「プラハの街の歴史」で触れたように、プラハは神聖ローマ帝国、ボヘミア王国など、世界を代表する国の首都として発展した歴史を持つ都市です。
そのため、14世紀以降から政治、経済、文化など多方面で大きな影響力を持ち、ヨーロッパを代表する都市へと発展していきました。
理由2:他の都市に影響を与えた美しい街並み
プラハは美しい夜景が見られることでも有名
世界遺産登録理由の2つ目は、他の都市に影響を与えた美しい街並みや歴史的な建造物に価値があると評価されたためです。
前述の「プラハの街の歴史」で解説したように、プラハの街の起源は非常に古いです。
その歴史の長さから、プラハは他のヨーロッパの都市の街づくりのモデルにされるほどの影響力を持ちました。
また、プラハにはゴシック、ルネサンス、バロック、ロココなど様々な建築様式が混在する独特な街並みが特徴です。
なお、今なおプラハに残されている歴史的建造物については、後述の「世界遺産登録範囲&主な建造物」で詳しく解説します。
理由3:ヨーロッパ中を揺るがす出来事が起こった歴史的な街
世界遺産登録理由の3つ目は、宗教戦争などヨーロッパ中を揺るがす出来事が起こった歴史的な街である点が評価されたことです。
下記のようなヨーロッパの宗教史における重要な出来事は、プラハを介して起こりました。
- フス戦争
- 三十年戦争
現在の宗教の基礎は、過去に発生した宗教に関わる大きな争いが大きく影響しています。
つまり、プラハの歴史とヨーロッパの宗教史は深く関係しているのです。
世界遺産登録範囲&主な建造物
ヴルタヴァ(モルダウ)川沿い広がる美しい街並み
プラハの街は、主に「旧市街+小市街(プラハ城南側)+新市街」の3つのエリアで構成されています。
そして、世界遺産登録されている『プラハ歴史地区』の範囲は、以下の部分を指します。
歴史地区(旧市街)は14〜18世紀の街並みが残るエリアで、奇跡的に戦乱などの破壊を受けずに残されました。
プラハ城
城壁内に歴史的建造物を多く抱える「プラハ城」
プラハ城は、9世紀後半に築かれた城塞を前身として築かれた、プラハの象徴と言える城です。
一度焼失するも、より巨大な城として14世紀に再建されたため、現在見られる姿は14世紀のものになります。
城壁内には、旧王宮、聖ヴィート大聖堂(詳細は後述)、聖イジー教会(プラハ最古の教会)など、プラハを代表する歴史的建造物が数多く点在しています。
なお、現在のプラハ城は政府機関の建物として利用されています。
聖ヴィート大聖堂
幾度の工事を経て完成したチェコ最大規模の聖堂「聖ヴィート大聖堂」
聖ヴィート大聖堂は、前述の「プラハ城」の城壁内に位置するゴシック様式の大聖堂です。
用語メモ
ゴシック建築とは、建築技術の発展によって”軽やかで明るい”建築が可能となり、パリを中心に発展した建築様式の一つ。”ゴシック”には、従来まで主流だったルネサンスから見て”野蛮な”というニュアンスが含まれている。聖堂内には歴代のボヘミア王の墓があり、チェコで最も神聖な聖堂、且つチェコ最大の聖堂として知られています。
聖堂全体の完成は1929年と比較的新しいものの、聖堂の基礎部分はなんと10世紀頃には出来上がっていたとされています。
その後、14世紀中頃に、カール4世の指示によって聖堂の建設工事が再開され、幾度の中断期間を経て完成しました。
ティーン教会
旧市街の中心地の広場に建つ「ティーン教会」
ティーン教会とは、14世紀ごろに完成した、プラハの中心である旧市街広場にそびえるゴシック様式の教会です。
前述の「理由3:ヨーロッパ中を揺るがす出来事が起こった歴史的な街」で出てきた「フス戦争」の際には、フス派の本拠地として利用されていました。
2つの塔の先端部分に、さらに小さな4つの塔が付いている点が特徴的です。
カレル橋
プラハ最古の石橋として知られるヴルタヴァ川にかかる「カレル橋」
カレル橋は、600年以上の歴史を刻むプラハ最古の石橋です。
建造の指示を出したのは、プラハが神聖ローマ帝国の首都として定められた際の初代国王「カレル1世(カール4世)」で、彼の名前がそのまま石橋の名前につけられています。
旧市庁舎
旧市庁舎のシンボル「天文時計」は数百年経った今でも動いている
旧市庁舎は、14〜19世紀にかけて建造された、複数の建物によって構成されている建造物群です。
14世紀中頃に約70mの塔が造られ、15世紀末には旧市庁舎のシンボルとも言える天文時計が完成しました。
なお、第二次世界大戦での空爆によって、旧市庁舎の北側部分は完全に破壊されてしまいました。
一方で、同じく被害にあった南側はその後修復されて、現在のような美しい姿を見せています。
本日の確認テスト
(「世界遺産検定」の概要についてはこちらの資料を参考にしてください)
3,4級レベル
14世紀に神聖ローマ帝国の国王となりプラハの発展に貢献した人物名として正しいものはどれか。
- ヤン・フス
- ルドルフ2世
- カール4世
- フランツ2世
③
答え(タップ)>>2級レベル
カトリック化を進めるために16世紀に国王として迎え入れた一族の名前として正しいものはどれか。
- メディチ家
- ブルボン家
- ハプスブルク家
- フッガー家
③
答え(タップ)>>1級レベル
プラハに関する説明として誤っているものはどれか。
- 15世紀以降、フス戦争など度重なる宗教戦争の舞台となった。
- カレル橋はカール4世の指示で建造されたヴルタヴァ川にかかるプラハ最古の石橋
- 6世紀にスラブ人がヴルタヴァ川沿いに集落を築いたことが街の起源。
- 財政難により想定よりも小規模なバロック様式の宮殿が築かれた。
④
答え(タップ)>>まとめ
- プラハの街の起源は約1,500年前にヴルタヴァ川沿いに築かれた集落。
- カール4世が神聖ローマ帝国の国王に就いたことでカレル大学の創設など街が著しく発展。
- ハプスブルク家を迎え入れたことでプラハのカトリック化が急速に進む。
- ヤン・フスの宗教改革によってフス戦争と呼ばれる大規模な宗教戦争が勃発。
- ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココなど様々な建築様式が混在する独特な街並みが特徴。
- 「プラハ城」「聖ヴィート大聖堂」「ティーン教会」 など多くの歴史的建造物が残されている。
おまけ:「プラハ」のプチ観光情報
まるで踊っているかのように見えるビルとして話題の「ダンシング・ビル」
最寄り空港 | ヴァーツラフ・ハヴェル・プラハ国際空港 |
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公用語 | チェコ語 |
通貨 | チェコ・コルナ |
観光のベストシーズン | 4〜10月 |
時差 | 8時間(サマータイム時は7時間) ※日本が8時間進んでます。 |
治安 | 非常に良い |
物価 | 普通(日本とほぼ同じ) |
ビザ | 不要 |
プラハは、街の美しさや治安の良さから、世界中の観光客が押し寄せる人気観光地です。
そのため、どの観光施設も大変混雑するため、なるべく事前にチケット等を購入しておくと安心です。
アクセス
残念ながら、日本からプラハへの直行便は就航していません。
一般的には、他のヨーロッパ各都市を経由してアクセスすることになります。
- 日本の各空港 [フライト時間:12〜13時間] ⇨ ヨーロッパ各都市(パリ、ロンドン、チューリッヒ、他) [フライト時間:約2時間] ⇨ ヴァーツラフ・ハヴェル・プラハ国際空港 [空港バス:約35分] ⇨ プラハ中心地
プラハのホテル情報
- 宿泊施設はヴルタヴァ川周辺に集中
- リーズナブルな宿から5つ星ホテルまで幅広く充実
- 3〜4つ星ホテルなら2名1室あたり1万円から宿泊可能
プラハの宿泊施設は、人気観光スポットが数多く点在しているヴルタヴァ川周辺とプラハ城周辺に集中しています。
誰もが知る有名なブランドホテルから、1泊数千円で宿泊ができるゲストハウスなど、ジャンルも豊富です。
さらに、イギリスやフランスといったヨーロッパの主要国と比べると物価が安いため、お手頃価格で清潔感のあるホテルに宿泊できる点は魅力的です。
参考文献・注意事項
- 当記事の内容は「世界遺産検定1級公式テキスト<上>」と「世界遺産検定1級公式テキスト<下>」を大いに参考にしています。
- 当記事は100%正しい内容を保証するものではありません。一部誤った記載が存在する可能性があることをあらかじめご了承ください。